▼【牧師日記】の記事一覧

2019年04月22日

大変久しぶりのブログとなりまして申し訳ありません。

今後共、どうぞよろしくお願い申し上げます。

次のような話を読んだことがあります。

300年の徳川幕府の時代が終わりに近づいていた頃です。

外国から日本に初めてやってきたのは、ペリー艦長の乗った黒船艦隊の人たちでした。

ちょうどその頃、キリスト教の宣教師たちも次々と来日しました

ある日、東京湾を一隻の船が航行していました。

一人の外国人が、デッキの上の手すりによりかかって熱心に聖書を読んでいました。

と、その時です。風がさあ~と吹いてきて、聖書がパラパラとめくれ、あっという間に

聖書が手元から離れ、海に落ちてしまいました。「しまった。どうしよう。」と思いましたが、

どうすることもできません。その外国人はとっさに、「神様、誰かがあの聖書を見つけて

拾ってくれますように」とお祈りしました。その後、聖書はどうなったでしょうか?

その聖書を発見した人がいたのです。その人は、佐賀の鍋島藩の家老で村田若狭

(むらた・わかさ)という侍でした。たまたま用事があって長崎に来ていたのです。

ある日、海をながめていますと何かがプカプカと浮かんでいるのが見えました。

さっそく家来に命令して取って来させると、一冊の本でした。どうしてこんなものがと思いながら、

破れないように本を開いてみましたが何が書いてあるのかさっぱりわかりませんでした。

日本語ではなかったからです。村田若狭は、この本は自分が今まで読んだ本とは

全く違うことが書いてあるに違いないと思ったようです。

なんとかしてこの本のことを知りたいと思い、色々な人に尋ねてみた結果、

その本は当時、読むことを禁止されていたキリシタンの本であることがわかりました。

村田若狭は、だめだと言われると余計に読みたくなり、中国語で書いてある聖書を探すようにと

家来を上海に送りました。村田若狭は、中国語を読むことができました。

やっと手に入れた中国語の聖書を、何度もくり返して読みました。

その後、オランダ人の宣教師から聖書を教えてもらい、聖書を拾ってから4年後の1866年5月20日、

村田若狭と彼の弟の綾部三右衛門(あやべ・みうえもん)の二人は洗礼を受けてクリスチャンになりました。

この二人こそ、日本における最初のクリスチャンのグループに入った人たちでした。

その後、村田若狭の子供たち、友達、家のお手伝いさんがイエス・キリストを信じたと言われています。

東京湾に落ちた聖書が流され、長崎で拾われました。

「あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節・旧約聖書)

聖書は人生の教科書です。あなたも、聖書をお読みになってみませんか?

2018年11月30日

今から200年前の話です。

オーストリアの聖ニコラス教会のモール神父は、教会のオルガニスト兼聖歌隊指揮者のフランツ・グルーバーのところに、

新しいクリスマス讃美歌の歌詞を書いて持っていきました。

モール神父がグル―バーに会うやいなや、モール神父は大変なことを聞きました。その日の朝、グル―バーがオルガンを

弾こうとすると音が出なかったというのです。調べてみると、ネズミがオルガンの中に入って、ふいごを噛み切ったらしいと

言うのです。オルガンを直すには、2週間はかかります。教会のオルガンが壊れているので、クリスマスイブの深夜のミサ

には使えないだろうと言うのです。モール神父は、、よりによってオルガンが使えないと聞いて、クリスマス讃美歌の伴奏は

どうしたらよいものかと途方に暮れました。

その時、モール神父はとっさに思い立って、自分が持ってきたクリスマス讃美歌の歌詞をグル―バーに見せて、

「これに曲をつけてくれないか? 深夜のミサで歌おう。オルガンの代わりにギターの伴奏でやったらどうか。」と言いました。

すると、グル―バーは、「自分はギターは弾けないし、作曲など無理だ。」と言いました。

しかし、、モール神父は諦めませんでした。

「ギターのコード3つぐらいは知っているだろう?」モール神父の言葉にグルーバーがうなずくと、モール神父が

「じゃあ、今夜、君の伴奏で新しいクリスマス讃美歌を歌おう!」と言いました。

グルーバーは早速、作曲にとりかかり、美しいメロディーができあがりました。二人は、この讃美歌に和声をつけて

二重唱で歌いました。楽譜が完成したのは、ミサが始まる30分前でした。

そのクリスマス讃美歌とは、大変よく知られている「きよしこの夜」です。

こうして、新しいクリスマス讃美歌が世界で初めて歌われ、演奏されたのです。

モール神父もグル―バーも、まさか「きよしこの夜」の讃美歌がチロルの山を越えて、世界に広がるとは夢にも思いません

でした。

オーストリアの小さな村で誕生した「きよしこの夜」の讃美歌は、多くの言語に訳され、世界中で歌われています。

クリスマス讃美歌の「きよしこの夜」は、オルガンの故障という最悪と思われる状況の中から生まれた讃美歌です。

2018年09月 9日

沖縄には、多くの黄金の言葉(くがにくとぅば)と呼ばれる知恵と教訓の言葉があります。

その一つに、「けらま(慶良間)みぃしが まちげーみぃらん」という黄金言葉があります。

この言葉は、「遠くにある慶良間島は見えても、自分のまつ毛は見えにくい」という意味です。

言い換えますと、「自分のこと、身近な物事は意外と気づかないものだ」ということを教えた言葉です。

聖書には、次のように書いてあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって『あなたの目からおが屑を

取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」

(新約聖書・マタイによる福音書7章3節~4節)

この聖書の言葉と、冒頭の黄金言葉の「けらま(慶良間)みぃしが まちげーみぃらん」とを

読み比べてみますと、とても似ている言葉であることがわかります。

聖書は、「兄弟の目にあるおが屑(人の欠点)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太

(自分の欠点)に気づかないのか。」と述べています。人の欠点は、小さいものであっても

よく見えるものです。しかし、自分の欠点にはなかなか気づかないものです。

このような話を聞いたことがあります。「あの人が悪い!」と相手を指差す時、相手のほうに

指が1本向いていますが、自分には3本向いているというのです。この話は、とても考えさせられる

話として、私の心に印象深く残っています。

聖書には、次のように書いてあります。「イエスは、私達のために命を捨ててくださいました。

そのことによって、私達は愛を知りました。」(新約聖書・ヨハネの手紙Ⅰ、3章16節)

「こんな私のような者のために」、罪のないお方、イエス・キリストが十字架で身代わりと

なって命をささげてくださったことを知る時、誰も自分を誇ったり、相手の欠点を指摘する

ことができなくなります。人はイエス・キリストを通して、はじめて愛を知ることができます。

イエス・キリストは、私達が人を愛し、赦し、受け入れることができるようにしてくださるお方です。

2018年07月31日

 私事で恐縮ですが、大学生の頃、タイでの教会建築のボランティア活動に参加したことがあります。

約3週間のタイでのボランティア活動と生活は、忘れることのできない貴重な思い出です。

タイでの生活で一番といっていいほど大切だったものは「水」でした。

私たちは毎日、井戸水を沸騰させ、飲み水にしたり、食事を作るために使っていました。

家の中や外には大きな水を入れる「かめ」が置いてあり、少なくなっていることに気づいた人が水をつぎ足すことになっていました。

 ある日のこと、子供たち数名が水を入れたバケツを持って私たちが宿泊していた家に向かってくるのが見えました。

はじめは、いったいなぜ水を持ってきたのかわかりませんでしたが、しばらくして、その子供たちが家の「かめ」に水を入れている

のを見て、ハッとしました。本当ならば、私たちが少なくなった「かめ」に水を入れなければならなかったところを、私たちよりも

先に気づいた子供たちが、水を汲んできてくれたのです。しかも、その子供たちの顔はみんな笑顔で輝いていました。

水汲みの作業は大人でも決して簡単とは言えない作業です。ましてや、子供にとっては、水が入ったバケツを持って歩くという

ことは本当に大変な作業だったと思います。

 あの日、私たちは子供たちが示してくれた優しさに感動で胸が熱くなったと同時に、恥ずかしい思いになりました。

聖書の中に、次のような言葉があります。

「私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」 ヨハネの第一の手紙 3章18節(新約聖書)

私は、水汲みをしてくれた子供たちの優しさと笑顔を思い出すたびに、愛を言葉だけではなく、表情や行動を通してあらわすことの大切さを強く感じます。

2018年06月15日

わたくしごとですが、5月の15日間連続講演会の後、ダウンしてしまい、

多くの方々にご迷惑をおかけいたしました。

今、風邪が流行っています。皆様も、くれぐれもお体にはお気をつけください。

さて、聖書の中に、次のような話があります。

そしてエサウは言った、「さあ、立っていこう。わたしが先に行く」。

ヤコブは彼に言った、「ごぞんじのように、子供たちは、かよわく、

また乳を飲ませている羊や牛をわたしが世話をしています。

もし1日でも歩かせ過ぎたら群れはみな死んでしまいます。

わが主よ、どうか、しもべの先においでください。

わたしはわたしの前にいる家畜とこ子供たちの歩みに合わせて、

ゆっくり歩いて行き、セイルでわが主と一緒になりましょう。」

創世記33章12~14節(旧約聖書)

ここに記されているエサウとヤコブは、双子の兄弟でした。

兄エサウが自分のペースで「出かけよう」と弟ヤコブに言ったのに対して、

ヤコブは、「私は、ここにいる家畜や子供たちの歩みに合わせてゆっくり

進みます。」と答えました。ヤコブは、自分のペースに合わせようとするのではなく、

家畜や子供たちのことを気にかけて、自分が合わせていこうとしました。

ヤコブの言葉は、イエス・キリストの姿を私たちにあらわしているように思います。

イエス・キリストは、私たちの気持ちを知ってくださり、私たちの歩みに合わせて

ゆっくりと歩いていてくださるお方です。

 
 

鉄砲百合

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2018年05月10日

沖縄は鉄砲百合の季節になりました。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

AMC時の森教会がありますアドベンチストメディカルセ
ンターでは、今がちょうど鉄砲百合の見頃を迎えています。

皆様は、百合の花を見て、どのような感じを持たれるでしょうか?

イエス・キリストが山の上でなさった説教の中で語られた

言葉の中に、「野の花がどうして育っているか、考えて

見るがよい」(マタイによる福音書6章28節 口語訳)

という言葉あります。

毎年、時期が来ると病院の周りに咲く百合を見ながら、

自然界の神秘を感じます。

百合は、神様から人間に与えてくださった

すばらしいプレゼントです。

百合の純白な姿を見ながら、私はイエス・キリストの罪、汚れの

ない、清らかなご品性を思います。

私も、イエス・キリストのような清い心をいただきたいと思います。

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2018年04月 3日

 私は、日常のさまざまな場面でj自分が話しすぎていることに気づかされ、反省する毎日です。

次の聖書の言葉と詩を読む時、話すことよりも、「聞く」ことの大切さを強く感じます。

「聞くに早く、語るに遅く・・・・・」(ヤコブの手紙1章19節)

 詩 「聴いてください」

「私の話を聴いてください」と頼むと、あなたは助言を始めます。

私はそんなことを望んではいないのです。

「私の話を聴いてください」と頼むと、あなたはその理由について話し始めます。

申し訳ないとは思いつつ、私は不愉快になってしまいます。

「私の話を聴いてください」と頼むと、あなたは何とかして、私の悩みを解決しなければという気になります。

おかしなことに、それは私の気持ちに反するのです。

 祈ることに慰めを見出す人がいるのは、そのためでしょうか。

神は、無言だからです。

助言をしたり、調整しようとはしません。

神は聴くだけで、悩みの解消は私にまかせてくれます。

 だから、、あなたもどうか黙って私の話を聴いてください。

話をしたかったら、私が話し終わるまで、少しだけ待ってください。

そうすれば、私はあなたの話に耳を傾けます。

2018年03月18日

AMC時の森教会のホームページをご覧の皆様

皆様に、お詫びを申し上げます。

長い間、ホームページを更新せず、そのままになってしまい、大変申し訳ございませんでした。

今後は、多くの方々にご覧いただけるように努めてまいりたいと思っております。

今後共、何卒、よろしくお願い申し上げます。

AMC時の森教会牧師  吉村 忍

2012年10月 2日

『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』マタイ1章23節

 

 「神様を信じるとはどういうことか?」と聞かれることがあります。皆さんは、どうでしょうか。神様を信じているでしょうか。それともまだ信じていないでしょうか。

 

 またある方は、クリスチャンであるけれども、本当に神様を信じているかどうか分からないと思う方もいらっしゃると思います。

 

 私がこの病院に来て、まだ半年ですが、患者さんと話をする中で、いかに多くの人がこの病院に来られて、初めて神様を知り、聖書に触れ、それをきっかけに地元の教会に行きだしたかを知りました。その数は驚くほどです。

 

 ここは病院であり、体を癒すところです。しかしまた、多くの方が「心を癒されたい」という思いに気づかれるようです。

 

 なぜ神様を信じるか?信じられるか?ということは、多くの人の疑問であろうと思います。またどうして、目に見えないものを信じられるのか。なぜ非科学的なことを信じられるのか。理解できない人も、おられると思います。

 

 日本人の宗教観は、一神教ではなく多神教であり、「神様は周りに漂っている」という雰囲気があるのではないでしょうか。しかし聖書の神は、さきほどの聖句にあったように、「我らと共にいてくださる方」です。

 

 若い時、壮年の時は、自分で何でもできるので、もしかすると神様の必要を感じないかも知れません。しかし年を重ね、何か問題が起こったり、体の自由が効かなくなると、孤独を感じるようになります。その時、苦しい時の神頼みに走るのではないでしょうか。

 

 神様が、「インマヌエル」であり、「我らと共におられる方である」ということを示す、実際にあった話があります。

 

 アメリカのある孤児院に、1人の少年がやってくることになりました。孤児院のスタッフ達は、その少年に対してどのような対応をするかで、頭を痛めていました。その少年が、ひどい心の傷を持っているという情報を事前に入手していたからでした。

 この少年の両親がある日、彼の目の前で夫婦喧嘩をしました。そのとき父親は、怒りのあまり鉄砲で母親を射殺してしまったのです。そしてその後、父親は自分の頭を鉄砲で撃って即死しました。少年は、その光景を全部見ていました。あくる日の朝、親戚の人が家に来て、その現場を発見するまで、少年は両親の死体を見ながら、血の海の中で座っていたのでした。

 少年が入った孤児院は、教会が経営する孤児院でした。孤児院の院長は、施設に到着した少年を連れて、孤児院の中を案内し始めました。孤児院の玄関には大きなイエス・キリストの絵が飾られていました。

 院長が少年に尋ねました。「この人を知っているかい?」。少年は「うん。知っているよ。」と答えました。院長が「君は教会に行っていたのだね」と話しかけると、「ううん。僕、一度も行ったことがないよ」と少年が言いました。彼は続けてこう言いました。「あの晩、お父さんとお母さんが死んだあの夜、このおじさんが、ずっと僕を抱きしめていてくれたんだよ。」

 

 イエス・キリストは、いつでも、どこでも、どんな時でも、あなたの側に共にいてくださる方です。

 

『46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。46:3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。』

                                         詩篇46:2-4 

2012年10月 1日

『しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。 そのとき・・・恩を知らず、神を畏れなくなります。 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、・・・』Ⅱテモテ3章1-3節 

 

 今、日本と中国・韓国との関係が非常に悪化しています。色々な要因があることは理解していますが、なんとかならないものかとニュースを見る度に心が重くなります。個人的に、どちらの国にも友人が多くおり、皆このような状況の中で心を痛めて成り行きを見守っています。

 

 うえさい 今日の聖書の言葉は、まさしく今の中国・韓国との関係に当てはまる言葉ではないかと思います。以前、こんな話を聞きました。

 

 「ニューヨーク・マンハッタンにある教会のゴードン牧師は、毎朝コーヒーショップに通っていました。ある時、ゴードン師は客のみんなに声をかけました。「僕らは毎日のように顔を合わせているのだから、自己紹介でもしませんか?」それから、一人一人が自己紹介していきました。ビジネスマン、コメディアン、小説家・・・。ゴードン師は、オーナーにも自己紹介を求めました。彼はためらっていましたが、重い口を開いて言いました。「自分の名はハシーンで、イラクのバクダッド出身だ」。それを聞いた瞬間、みんなよそよそしくなり、あわててコーヒーを飲んで、出て行きました。客のほとんどがユダヤ人で、ちょうど湾岸戦争によって、イラクとイスラエルが緊張状態にあったからです。

 やがてイラクがイスラエルにミサイルを打ち込んだというニュースが流れました。ゴードン師は心配して、ハシーンの店に行ってみました。すると、そこにはいつものメンバーが集まっていました。彼らは、ゴードン師に言いました。「みんなの代表として、ハシーンとバクダッドにいる彼の家族のために祈ってほしい」。そしてゴードン師が祈り終えると、彼らはユダヤ人とアラブ人の壁を越えて、ハシーンを抱きしめ、励ましたのでした。ハシーンは涙を流し、言いました。「僕はこのアメリカで一人ぼっちじゃないことを、今知った」

 

 国と国との関係は、領土や民族主義が絡むと、とかく熱しやすく、難しくなりがちです。しかし、それはまた、その国の人々が人間関係においていかに成熟しているかを如実に表すバロメーターではないかと思います。つまり、日本・中国・韓国は、ある意味、関係性においてお互いに未熟な部分を抱えていると認めざるをえないということです。

 

 聖書に次のような言葉があります。この聖書の言葉は、イエス・キリストが十字架に架かる直前に祈られた言葉です。人々が自分たちそれぞれの行動を理解していないこと、しかしイエス・キリストがその過ちを受け入れ、赦しを求める姿がここにはあります。今の困難な局面、また私たちの普段の人間関係においても、避けることの出来ない「敵意を越える」ためのヒントが、この言葉の中にあるように思います。節 』

 

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』 ルカによる福音書23章34節

2012年09月25日

 

『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』黙示録21:3,4

 

この聖書の言葉は、ホスピス病棟(緩和ケア病棟)で、患者さんが亡くなった時、病室でご家族と共に行う「お別れ会」でよく朗読する聖書の言葉です。

 

死に直面することは、どんな時でも悲しいものです。しかし、聖書はそんな悲しみの中でも希望を指し示しています。死に直面してなお「希望」があると。それが人生最大の悲しみであったとしても、その先に希望を垣間見ることができるというのです。

 

病院のチャプレン(病院付き牧師)の仕事には、「バイブルアワー」といって、毎日患者さんと讃美歌を歌い、聖書を読む時間があります。讃美歌を歌う声に引かれて訪れる方がいるかと思えば、聖書を全く知らずにぶらっと立ち寄る方もおられます。色んな方が来られる中で、何人かのホスピス病棟の患者さんも必ず来られるます。この方々は、余命いくばくもない時を受け止めつつ、残された大切な日々を過ごしています。そして毎日、この時間を楽しみにして来られるのです。

 

彼らは、死の先にある希望を見ています。私も彼らの明るさと、その希望を共に分かち合う中で、日々慰められています。その希望とは、神様が一人一人の心をご存知で、慰めて下さり、こんな自分でさえも愛して下さっていること。そして、誰も自分の気持ちを分かってくれず、離れていくときも、

わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない』ヘブル人への手紙13:5

という愛の言葉に大きな励ましを受けているのです。今日も、神様からの希望と愛によって本当の平安を得たいと思います。

 

『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』Ⅰコリント人への手紙13:13

 

2012年09月21日

『2:1幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、2:2多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。2:3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。2:4ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。2:5イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 』 マルコによる福音書2:1-5

によるにる」」』 

 

 この話にとても慰められます。それは、イエス様がこの中風の人を癒されたのは、「本人の信仰が立派だったからではない」という点です。本人のことは全く関係ないように見えます。ただ友人四人の熱心さ、体の不自由な中風の友を救いたいという思い。そして、「イエス様に見てもらえさえすれば何とかして下さる」という純粋な信仰を見ておられました。

 

神学者のボンヘッファーは語っています。「私たちは、他のクリスチャンの助けを必要とします。もし必要ないというなら、その人はクリスチャンではありません。」

 

これは、まだ神様を受け入れていない私たちの家族や、大切な人たちにも言えることです。その人たちが神様を受け入れていないことで私たちは思い悩みます。しかし、イエス様がその人のためにまず祈って下さり、見守っておられます。そして私たちが「四人の友人」のように主に求めるとき、神様の力が臨みます。パウロとシラスはこう宣言しました。

 

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます 。」

 

教会は、失敗できない社会の中で唯一、ホッと一息つける場所です。ありのままの姿で受け入れられる場所です。そして罪そのものを十字架で帳消しにして下さった「真の友イエス・キリスト」だからこそ、私たちは彼の前で本当の意味で心安らかに生きることができるのです。あなたも、そのような心安らかな生き方をしてみたいと思いませんか。

 

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