▼【2012年10月】の記事一覧

2012年10月 2日

『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』マタイ1章23節

 

 「神様を信じるとはどういうことか?」と聞かれることがあります。皆さんは、どうでしょうか。神様を信じているでしょうか。それともまだ信じていないでしょうか。

 

 またある方は、クリスチャンであるけれども、本当に神様を信じているかどうか分からないと思う方もいらっしゃると思います。

 

 私がこの病院に来て、まだ半年ですが、患者さんと話をする中で、いかに多くの人がこの病院に来られて、初めて神様を知り、聖書に触れ、それをきっかけに地元の教会に行きだしたかを知りました。その数は驚くほどです。

 

 ここは病院であり、体を癒すところです。しかしまた、多くの方が「心を癒されたい」という思いに気づかれるようです。

 

 なぜ神様を信じるか?信じられるか?ということは、多くの人の疑問であろうと思います。またどうして、目に見えないものを信じられるのか。なぜ非科学的なことを信じられるのか。理解できない人も、おられると思います。

 

 日本人の宗教観は、一神教ではなく多神教であり、「神様は周りに漂っている」という雰囲気があるのではないでしょうか。しかし聖書の神は、さきほどの聖句にあったように、「我らと共にいてくださる方」です。

 

 若い時、壮年の時は、自分で何でもできるので、もしかすると神様の必要を感じないかも知れません。しかし年を重ね、何か問題が起こったり、体の自由が効かなくなると、孤独を感じるようになります。その時、苦しい時の神頼みに走るのではないでしょうか。

 

 神様が、「インマヌエル」であり、「我らと共におられる方である」ということを示す、実際にあった話があります。

 

 アメリカのある孤児院に、1人の少年がやってくることになりました。孤児院のスタッフ達は、その少年に対してどのような対応をするかで、頭を痛めていました。その少年が、ひどい心の傷を持っているという情報を事前に入手していたからでした。

 この少年の両親がある日、彼の目の前で夫婦喧嘩をしました。そのとき父親は、怒りのあまり鉄砲で母親を射殺してしまったのです。そしてその後、父親は自分の頭を鉄砲で撃って即死しました。少年は、その光景を全部見ていました。あくる日の朝、親戚の人が家に来て、その現場を発見するまで、少年は両親の死体を見ながら、血の海の中で座っていたのでした。

 少年が入った孤児院は、教会が経営する孤児院でした。孤児院の院長は、施設に到着した少年を連れて、孤児院の中を案内し始めました。孤児院の玄関には大きなイエス・キリストの絵が飾られていました。

 院長が少年に尋ねました。「この人を知っているかい?」。少年は「うん。知っているよ。」と答えました。院長が「君は教会に行っていたのだね」と話しかけると、「ううん。僕、一度も行ったことがないよ」と少年が言いました。彼は続けてこう言いました。「あの晩、お父さんとお母さんが死んだあの夜、このおじさんが、ずっと僕を抱きしめていてくれたんだよ。」

 

 イエス・キリストは、いつでも、どこでも、どんな時でも、あなたの側に共にいてくださる方です。

 

『46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。46:3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。』

                                         詩篇46:2-4 

2012年10月 1日

教会では、今週の土曜日の礼拝より安息日学校を始めます。これは、聖書をグループに分かれて楽しく共に学ぶ時間です。通常は、安息日学校をしてから礼拝の時間を持つのですが、私たちの教会では10時より礼拝の時間を持ち、その後11時20分から安息日学校を始める計画です。これは12月末までの暫定的な予定です。来年の1月以降は、時間が適正かどうかを検討した上で改めてご案内いたします。AMC教会に来られる皆様は、時間をお間違えのないようお越し下さい。

2012年10月 1日

『しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。 そのとき・・・恩を知らず、神を畏れなくなります。 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、・・・』Ⅱテモテ3章1-3節 

 

 今、日本と中国・韓国との関係が非常に悪化しています。色々な要因があることは理解していますが、なんとかならないものかとニュースを見る度に心が重くなります。個人的に、どちらの国にも友人が多くおり、皆このような状況の中で心を痛めて成り行きを見守っています。

 

 うえさい 今日の聖書の言葉は、まさしく今の中国・韓国との関係に当てはまる言葉ではないかと思います。以前、こんな話を聞きました。

 

 「ニューヨーク・マンハッタンにある教会のゴードン牧師は、毎朝コーヒーショップに通っていました。ある時、ゴードン師は客のみんなに声をかけました。「僕らは毎日のように顔を合わせているのだから、自己紹介でもしませんか?」それから、一人一人が自己紹介していきました。ビジネスマン、コメディアン、小説家・・・。ゴードン師は、オーナーにも自己紹介を求めました。彼はためらっていましたが、重い口を開いて言いました。「自分の名はハシーンで、イラクのバクダッド出身だ」。それを聞いた瞬間、みんなよそよそしくなり、あわててコーヒーを飲んで、出て行きました。客のほとんどがユダヤ人で、ちょうど湾岸戦争によって、イラクとイスラエルが緊張状態にあったからです。

 やがてイラクがイスラエルにミサイルを打ち込んだというニュースが流れました。ゴードン師は心配して、ハシーンの店に行ってみました。すると、そこにはいつものメンバーが集まっていました。彼らは、ゴードン師に言いました。「みんなの代表として、ハシーンとバクダッドにいる彼の家族のために祈ってほしい」。そしてゴードン師が祈り終えると、彼らはユダヤ人とアラブ人の壁を越えて、ハシーンを抱きしめ、励ましたのでした。ハシーンは涙を流し、言いました。「僕はこのアメリカで一人ぼっちじゃないことを、今知った」

 

 国と国との関係は、領土や民族主義が絡むと、とかく熱しやすく、難しくなりがちです。しかし、それはまた、その国の人々が人間関係においていかに成熟しているかを如実に表すバロメーターではないかと思います。つまり、日本・中国・韓国は、ある意味、関係性においてお互いに未熟な部分を抱えていると認めざるをえないということです。

 

 聖書に次のような言葉があります。この聖書の言葉は、イエス・キリストが十字架に架かる直前に祈られた言葉です。人々が自分たちそれぞれの行動を理解していないこと、しかしイエス・キリストがその過ちを受け入れ、赦しを求める姿がここにはあります。今の困難な局面、また私たちの普段の人間関係においても、避けることの出来ない「敵意を越える」ためのヒントが、この言葉の中にあるように思います。節 』

 

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』 ルカによる福音書23章34節

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